昭和51年03月15日 朝の御理解
御理解 第53節
「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」
本当の信者を目指さなければなりません。それには段々本当のおかげが頂けてくるようになるわけです。また本当な事が段々分かってくるわけであります。その本当の事の中にです、信心すれば目に見えるおかげより、目に見えぬおかげのほうが多いと言う事が、はっきり分かってくるんです。私は今朝教団の今の新運動についての、お願いをさせて頂いておりましたら、こんな鬼の姿をした人がね、マイクを持って一生懸命その、まっ伝導しておるというか、人に伝えておるような情景を頂いたんです。
どう言う事だろうかと。卑しくも教祖金光大神の教えに基づいて、そして色々おかげを受けてきた、又はおかげを受けなければならない、金光大神の信心は、こんなにも素晴らしいと言う事をいうならば、世間社会に語りかけておるという姿だと思いましたけれども、例えば鬼が呼びかけておるという事です。だからまあ鬼と言うてその、角の生えた鬼というような意味でもないでしょうけれども、私が見たのはやっぱり角の生えた鬼でした。けども、まあどう言う事かというと。
結局鬼の世から神の世に変わらなければ、金光大神の信心は、本当の事にはなりませんです。それを三代金光様は、全教一新してとこう仰っておられる。もう三代金光様も今は、鬼の世だと言った様な事をご承知だったんでしょう。だから全教一新して下さいよ。教祖の昔教祖の時代の信心に帰って下さいよと言う事ではなかっただろうかと。ね。それを、また教祖のお言葉をお借りするならばね。「今は、知恵の世で。」と仰っておられますですね。世の中が段々進んで行く。
いうならば文明文化の花が咲いた教祖の、あのご時代に、もうそれこそまあ丁度、戦後日本が飛躍したような感じじゃなかったでしょうかね。西洋文明が入ってくる。そういうもう本当にあらゆる新しい文明が入ってきて、それこそ開化の時代をに教祖様は、御道の信心を打ち立てられたわけですが、まっその時分に世の中があの開けた開けたというけれども、あれは開けるのではない。めげるのぞと仰っておられる、ね。ですから今の教団の上にぴったりくる言葉だと思うです。
今は鬼の世という事は、どう言う事かというと、今は知恵の世と言う事だと思うです。ね。知恵の世です。ね。人間の浅はかなどんなに深い哲理的な、哲学的な表現を致しましてもです。どこまでも矢張り人間の頭から搾り出した所の信心で、教祖の信心はかくだああだと言うたり、説いたりしておると言う事がです。一行おかげに繋がらない事になるのだと言う事を、私今日は思わせてもらった。ね。
今は、まっ鬼の世と言う事は、御神願に下さったのですけれども分かりやすく、鬼の世神の世をはっきりするために、まあだから知恵の世と言ったが良いでしょう。今はの金光教は知恵の世である。ね。いかにも開けた開けたと言うても、それは、めげにめげてきたのが、現実の金光教ではないかとこう思うです。ね。そのめげてきたところにです、気付かせて頂いて、新たな新運動が発足すると言う事も、矢張り知恵を持って社会に語って言ったところでです。
おかげの世界をむしろ、狭めて行く様な結果にしかならないぞと言う事であります。本当にね私はあの、本当に極端な事ですけれども、今はそう言う本部には鬼が、鬼ばっかりが集まって、金光教を牛耳ってるんだと。ならしかもその鬼そのものもね。どうでも金光教がつぶれるようにとは、決して思ってないのです。ね。矢張りどうかして、どうかしてと言ってるわけですけれども、どうかしてどうかしてと言っておるその人自身がね、おかげを受けていないと言う事です。ね。
○○部長何々課長と例え言う人でもです。ね。はあ素晴らしい文章を書いたり、お話をなさったりしても、例えばその人の所の教会に、人が助かっていないと言う事実を見てね、成程開けよるのじゃない、めげよるのだと言う事。そういう人達が先頭に立って、音頭をとったり宣伝をしたり、社会に呼びかけていったり、信者内にもそれをまた、呼びかけて言った所でですね。そう言う事を、得とく体得する事は返って、結果は面白くないという事になります。
天地書附を軸にしてと言う事で、天地書附が色々な角度から、深く広く検討検証されるようになりました。だから意味がどんなに分かった所で分かったからと言うておかげ頂くのじゃないです。私はこらもうはっきり、佐藤かずお?和代先生というあの方が、書いておられるのですから、ね。それをまああの天地書附を、ほんとに秋永先生いわく「本当は親先生、貴方が説きよりなさったふうに、むごう説いちゃある。」
というでした。所が最後にです、天地書附をあれをただ、訳も分からんなりに連唱した所で幾ら唱えた所で、それはつまらんとこう言ってあるです。私ととはそこが反対なんです。神様と交流する。神様が生き生きとして下さる、ためにはむしろ分からんけれども、教祖様がこれを見てと言われた、平凡な毎日これを見やすい所に貼っておけと仰った。おかげは和賀心にありと。
だからその例えば有難いご神意のこもっておる、そのみ教えをです。例えば繰り返し繰り返し訳は分からんなりでも、有難うなるまで唱えさせて頂く。しかも無条件。しかも金光教の信心をしておる者としては当然の事、普通はもうただあれを頼み、これを願うと言う事ばっかりだけれども、いうならここではそれを大祓い心行という、ね。天地書附じゃなくて大祓いを連唱する。ああいう大祓いなんか、先日のこの前にもこれはこれもやっぱり、偉い先生が新聞に出しておられました。
まあだ今の時代に大祓いやらをあげよる教会があるとか、まあだ今の時代に御神殿のない、お社のなかに神様を封じ込めておるような教会があるとか、と言った様な事が如何にも間違っておるように言うておられる新聞が出ておりました。ここの神様は例えお社の中に封じ込めた所で、封じ込められなさるような神様じゃないもん。もう本当にただあの神道から来た形式と言った様なものを無視して、そんな事ではいけんというなら、先ず拍手からお三宝から、ね。
もう金光教の、ほんならこのお御簾とか、几帳なんかでも全部取り替えなければいけないです。あれは神道から来たのです、ね。ただ大祓いがいかんの、あれはほんなら拍手なんかでも、ほんなら神道からきとるとです。ね。それがまあ良い悪いという事ではないですけれどもです。ね。いよいよ、神様と交流する手立てというものを、自分の浅い知恵で断っていきよるような感じが致します。
昨日その新聞の中に、何時もここの欄には若い先生があの、金光教を語っておるわけですけれども、そのとても素晴らしいあの事が出てます。気球というあのここ二、三回出よるようですが、塚本という若い先生が言葉への道という題で書いておられます。大変難しいことですけども、私は昨日読ませて頂きながら、私が感じた所をちょっとこう、鉛筆で線を引いておりました所だけを読ませて頂きましょう。
信仰の言葉という「総じて言えば、安易な方法で信仰を知ろうとしたことであり、対象化し抽象化されたものを、観念操作により信仰を知ろうとした事であり、言葉が生命ある生きたものとは見なかった。」と書いてある。確かにその通りです。教祖様の例えばこのお言葉というものをです。ね。生命ある生きたものと思ってなかった。ただ表面に出ておるその言葉だけを、その色々に言うて来て、そして次にこう「信仰の言葉には虚心に心を向け、言葉から送られてくるものに聞き入ることがいるのではないか。」
といわゆる核心に触れておられるわけです。ね。教祖様の例えばお言葉というものはもう本当に虚心、ね。もう自分の心を本当に虚しゅうして頂くべきだと。ね、私は今朝からその頂く、まあ鬼の世というとどうも、言葉があんまり表現ですけれども、お知らせを頂いたのはそれ。例えば鬼の世から神の世に変わらなければいけない。知恵の世から心の世に変わらなければいけない。もう金光教の信心は、どこまでも心です。ですから心で思うたり念じたりすることは、人には分からんです。ね。
それをです例えば簡単な言葉なら言葉を持って教祖が表現しておられる、簡単な私の知識のある限りの、いわば、頭脳を絞って神様のお心を皆さんに、こうやって伝えておるわけです。ね。それを、本当に、虚心坦懐、ね。虚心にそれを頂くという事、もう頂くという事。それをひねくり回すことじゃないという事。ね。いわゆる、頭、知能の、いわゆる、知恵の信心からです。いわゆる、心の信心に変わらなければ、鬼の世から神の世に変わるという事ではない。
でなかったらばですいわゆる、金光教全体の中に、和賀心が生まれない限りおかげは頂けない。そこでですほんなら、どう言う様な信心を土台にしてです。どう言う様な信心を、そうだと確信してです。どう言う様な信心を自分のものにして行きつつあるかと言う事をです。土台にして人に語り伝えてゆけばおかげになるかと言う事がです。例えば今日の御理解、第五十三節などをです、本当に分かりえたらそしてそれを、人に語り伝えていったら必ず、人も付いてくるだろう。
必ず付いてきた人が助かるだろう、と私は確信します。今日はそういう意味でね、このご理解五十三節をもう一遍、頂き直さにゃいけません。いいですか「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげのほうが多い。知ったおかげよりも知らぬおかげのほうが多い。」と言う所をね、分からにゃいかん。ね。いわゆる人間の知恵の世で、知恵でもってするならばです、ただ目に見えておる所だけしか、そこん所を評価いたしません。その事も、この先生がこんなふうに言っておられますですね。
「現代の問題が、現在ある信仰の言葉でもって、いとも簡単に解決するかのように思うのは止めてみよう。」「我々は、自分達を縛ってくる一切の金光大神像、信心像からおさらばしてみよう。そして現実を見据えつつ自分が触れ、感じるものを金光大神覚えなり、金光大神御理解の中に見出し、その言葉をてこに、今までのものを、考えてみなければならない。」と。「金光大神の言葉が、ただ現代の価値で読み替えられていて、そう言う事もあるかと思うが、その事が自分たちを支える言葉にならない。」
ここん所ですね金光大神の言葉が、只現代の価値で読み替えられておるというね。例えば確かに御理解の中に当時の、矢張り天皇陛下を大事にしなければならない。忠義をしなければならない。親には孝行しなければならない。と言った様な道徳的なものが教えの中には入ってきている訳ですね。例えば御教えの中にもその「わが身はわが身なら神と神との身と思い知れよ」なんてのがねございますでしょう。だから現在のほんなら価値観から言うともうそげな御理解は取ってしまえとこう言ってるわけです。ね。
けれどもこの言葉の深さというものはとてもね。その言葉の深さを知ろうとしない。ただ今現代がこういう世の中になったから、もうその教えはいらない。まあ一時しよると今度は時代が変わってくると、この御理解もいらないと言う様な事になりかねないです。教祖のお言葉の中に無駄があるはずはない。私はこの例えばその神と神との、身と思い知れよと言う事はですね。決して日本人だけの事じゃないと。世界中の人がですね。矢張り神ですね。神様の命であり体であるという風に頂かなければならない。
又はその神と言う事を、教祖の神と置き換えればいいのです。もう全身全霊を教祖の神様に、例えばお任せするというのはそう言う様な事にもなるのです。ただ今の現時点でのその価値観をもって、御教を左右すると言った様な事ではいけないと言う事をです。若い先生がそう言っておられる。確かにそうです。ね。そこでなら私どもがです、ね。いうならば知恵の世から、いうならば心の世。鬼の世から神の世に金光教が変わらない限り、金光教の大発展はないと言う事。
そこでなら合楽ではです、ね。訳は分からんでも良いから大祓い心行。いやむしろ分からんほうがいい。天地書附でも大祓いでもただ一心不乱に、それを神様へお供えさせて頂く。神様が生き生きとして見える。それこそ、秋永先生じゃないけども、最近我情が取れていく、我欲が取れていく自分を見てです。どうした事だろうかと自分でも思うと。親先生があんな言うとったが、とても我情我欲なんか取れるもんじゃないと思うておったけれども、取れていく自分自身をこりゃもう人じゃない、自分が分かるのである。
それをどう言う所から頂けてきよるかというと、まあ大祓い心行の功徳であろうと言っております。ね。ここ辺なもう理屈じゃないのですだから。大祓い心行をあげよるうちにです、ご神前を立とうごつないごと、有難うなってくると言う事は、もう理屈じゃないです。五巻上げたから十巻あげたからという数や数の問題じゃないです。ね。そういう無心の状態。それを私は真心とこういう。その真心を神様へ、三十分でも一時間でもお供えするのですから、神様が生き生きとして見えるはずです。ね。
その生き生きとしてござる、その神様に願いをかける、お礼を申し上げる、お詫びをするのですから、生き生きと受け答え、生き生きと、そのおかげもまた現れてくる道理です。そういうところが、今の、ね。金光教の、いうならば、頭脳の人達に言わせますとです。そういう馬鹿げた事ではいけないと。大祓いはあの意味が分かるか。おかしな事が書いてあるぞと、ね。だから金光教的ではないぞと。なるほど理屈を聞けばそうだけれども、理屈じゃないて。ね。
大祓い心行を矢張りその辺にです、いうならば本当は信仰の味わいというものはあるのです。理屈ではない。けれども有難いものが頂けてくるという、そこに信心の有難さがあるのです。理屈で分かりきったりしただけじゃ駄目。言うなら皆さんがあのう、拝詞を奏上されますでしょうが。ね、そら立派なことが書いてあるです。またあの通りの祈りもしなければならんのですけれども、あれを幾ら唱えた所でです。有難くなれないです不思議に。やっぱり大祓いのほうが良いです。ね。
それはもう無心いわゆる虚心坦懐になれるからです。ね。そこでなら今日私が皆さんに聞いて頂きたいのは、この五十三節のような御理解をです。自分のものにして行くという信心。この五十三節こういう御教えが、自分のものになって行きつつある人がです。人に語っていかなければ本当の事ではありません。ね。先日萩の山口さんの例をお話しましたが、ね。もうやっぱり五、六十年も信心を続けておられるでしょう。それこそ執念のようなものを燃やしながらそこそこの教会にお参りになっておられる。
萩の教会が直ぐ近所だから、萩の教会に日参をなさる。まっここには月に三回か四回か、夫婦で参って見えるだけですけれども、ね。お孫さんのいわば大学受験のお願いがしてあった。またお孫さんの高校受験の願いがしてあった。所がお孫さんは合格したけれども、姉さんのほうが不合格であった。ね。でおかげを頂いてからも孫娘がおかげを頂きましたが、その残念な事には、姉娘は落ちましたと言わっしゃらじゃった。
ただあのおかげを頂いてから、姉娘の大学のはおかげを頂いて、まあ出来ませんでしたと言われるから、私はそれに対してまあ、やっぱ神様のご都合でしょうとこう言おうとしたら、もう親先生もう、これは長年の体験から言いますことですけれども、もうお願いをしてお取次ぎを頂いて、右と願って左となったときに後から必ず、それのほうがおかげだという。いわゆる目に見えるおかげは、妹のほうの合格であるならばです。
目に見えない所のそのおかげというものは返って大きい事、こればっかりは私は体験でもう、それこそ嫌と言うほど体験してきとりますから、今日はそのお礼に出てまいりましたと言うて、それこそ妹さんのは、千円ならばです。いうならば姉さんのほうの不合格のほうは、例えばですよこれは。二千円のお供えをしてから、お礼を言うておられるです。問題はそういう信心が分かった時にです。金光教の信心金光大神の教えによって助かった人と言う事が言えるの
お取次ぎの働きというものは、そんなもんだと確信が出来ると言う所に、金光教の助かりがあるのです。だからそういう助かりを得た人達。またそういう助かりを求めていく人達がです。私は示現していかなければ、いうならば人に語りかけていかなければ、ね。本当の事には決してならない、ね。そこでですならあれもおかげであった、これもおかげであったと言う事がここではっきり出てくるわけ、分かるわけです。合格したことも有難いばってん、合格せんのはもっと有難いんだという。
そこにあれもおかげ、これもおかげと言う事になっていわゆる、金光大神の世界に住むことのほどしのおかげを、ね。そういうおかげを願い求めていく人達が私は、ね、教団を牛耳って行くようにならなければです、ね。意味も分からん大祓いば幾らあげたっちゃ同じこつと言う様なです。信心の一番有難い所を頂かず欠けて、ね、おる人達がです、ね。いかに金光教を麗々しゅう、文章にしたりまた言葉にしてそれを人に伝えていっても、おかげには繋がらないと言う事をね、改めて今日は思わせて頂いた。
そういうおかげを頂くために、先ずこら他にも沢山あります、御教えが。けども今日はこの五十三節でしたから、この五十三節に現れておる、この御教えの深さをです。私共が分からせて貰うて、果して自分はあれもこれもおかげと思うておるだろうか。果たしてお願いをしておかげを頂いた事もおかげなら、でない事の場合により、ね、おかげが多いぞと、ね。目に見えるおかげより目に見えないほうのおかげが多いと。
知ったおかげより知らぬおかげのほうが多いという、そのおかげに気付かせて頂いていきよるかどうかと言う事をです。信じて分かっていくという信心の進め方からしか、金光教の、いうならば、本当の真意に触れる事は出来ない。また金光教を愈々人に伝えていくというような発展には繋がらないという風に思うんです。皆さんも矢張りこの五十三節を、もう一遍頂きなおして、ね。
お願いしておかげを頂いたこつはおかげばってん、でなかったらやっぱ、おかげは頂きらじゃったと、残念でしたと言う様な事では、何時までたっても本当ないうならば、信心を頂いていきよると言う事にはならんのです。ね。本当の金光教の信心によって助かる。金光教のいうならばお取次ぎと言う事が、独壇場と言われるがです、そのなら現れてくるおかげもまた、独壇場でなからなければならないと言う事でございます。
どうぞ。